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裏妙義山での事故

1998年11月15日(日)、私が7人の山仲間と裏妙義(群馬県)を山行中のことだった。

御岳山(みたけさん)を越えて丁須の頭(ちょうすのかしら)に向かう途中にて、3つ目の鎖場をようやく登り切った時だった。鎖から手を離して体を起こし、細い道を何歩か進むと突然、周囲の景色が目まぐるしく変わり、「何だ何だ」と思ううちに体が激しく揺さぶられ、叩きつけられた。気が付くと右手が細い木をつかんでどうにか停止。周囲の様子を見渡せば、下方にまだ何10メートルも続く斜面(傾斜は45度くらいか)、足元に左手から滑り落ちた腕時計、頭の上では枝を握りしめた右手が目に入り、自分が滑落したのだと悟った。

しばらくして落ち着きを取り戻した時、「良かった、怪我は無かった」と思った。しかし、力の全く入らない左手に違和感を感じたので、シャツの袖を恐る恐る引っ張ると、袖の中から膨らんで醜い左手首が出てきた。その形には見覚えがあった。子供の頃、思い切り転んで手首を脱臼した経験があったからだ。「脱臼かな。少しねじれば直るかもしれない」と手首に触れてみると、「ううっ」というひどい痛み。なすすべもなく袖で左手首を隠した。

斜面にへばりつくしかできない私の救出作戦が、速やかに開始された。まず山仲間のS氏がザイルで自らの体を固定した。そして斜面をはいながら私に近づいてきて、私の体を背後から支えてくれた。更なる私の滑落を防ぐためだ。その後、別のS氏が私に近づき、私のザックを引き上げた。次に私の腰にザイルが固定され、私が這い上がる番だ。自力では一歩も動けない私は、腰のザイルに誘導されながら、右手と二本の足で左斜め前方へと移動を開始。そろりそろりと手足を動かすこと数分の後、何とか山道にまでたどり着いた。顔を上げると目の前には、ブラリと太い一本の鎖。今しがた登ったばかりの鎖場の登り口に戻ってきたのだった。
「ここまで来ればまずは安心」と一息つく。

自分の落ちた現場を振り返ると、恐怖と驚きを禁じ得なかった。私は大きな岩の塊の脇を枝にぶつかりながら、垂直に5、6m落下し、その後は山の斜面を7、8m滑っていったのである。「よく手の怪我だけで済んだものだ」。心底そう思った。落ちる時の体勢が悪ければ頭や足の骨も折っていただろうし、打ち所が悪ければ、この世にもいられなかったはずだ。岩の木々と背中のザックが落下のショックを和らげてくれたのだ。
一息ついたのも束の間のこと。今度は移動しなければならない。しかしどうやって移動するのか。ここに来るまで幾つもの鎖場を越えてきたのだ。一難去ってまた一難とはこのことだろう。

幸いにもD氏が無線機を所持していたので、それでH氏が非常コールを発信。しかしなかなか受信者が現れない。スピーカーから聞えてくるものは、無線でお喋りを楽しんでいる交信者の声ばかりで、その呑気な様子が余計にイライラを募らせる。「今は非常事態なんだ!!!!」
しかし、10分くらい経過してようやく受信者が現れ、地元の松井田警察署と連絡が取れた。警察に事故の状況を説明し、ヘリコプターの出動を要請した。足には怪我が無く、歩くのには問題無かったが、ここが登山口から数時間の距離にあること、そして何よりも傷を負った体で多くの鎖場を越えるのが困難と判断したためだ。
ヘリコプターの救援を確認すると、ヘリコプターの接近しやすい、見晴らしが良い場所への移動するため、仲間と共にその場を離れることにした。目的地は先ほど通過した御岳山。ゆっくりと足を運んでいる私を仲間たちは注意深く見守ってくれた。途中の鎖場では私の体にザイルを結び、両足は岩に垂直に立て、右手一本で鎖をつかみながら降りていった。私の滑落を食い止めてくれた右手は傷を負い出血していたが、使わずにはいられない。滲み出る血をこらえながら、鎖を力一杯握りしめた。血で汚れた鎖は他の登山者を驚かせてしまっただろう。

御岳山に到着後15分ぐらいすると、天を破るかのような爆音をとどろかせながら、黄色いヘリコプターが空中に出現。斜面で体を支えてくれたS氏が黄色いタオルを一生懸命ヘリに向けて振っている。ヘリのスピーカーから「強い風が吹くので伏せるように」の指示が出て、接近してくる。猛烈な風に立つことはおろか目も開けられない。そして風による冷たさが、じわりじわりと強くなってゆく左手の痛みを一層辛いものにした。風がおさまり、顔を上げると目の前にはオレンジ色のユニフォームで全身をおおった救助隊員が救命具を持って立っていた。さっそく救命具を体に取りつけようとしたのだが、その試みは失敗だった。救命具はリング状のもので、リングを体に通し腋の下で固定するものだったからだ。力の入らない左手では、リングが抜けないようふんばるのは難しい。そこで別の救命具を降ろすため、再びヘリコプターが接近。突風がまたも私たちの体を容赦無く叩きつける。
今度降ろされた救命具は、腰掛けのような形状で、体全体を支えるものだった。体に救命具をくくりつけ、ヘリコプターから降ろされたワイヤーに固定。隊員もワイヤーにつかまり、合図と共に上昇を開始。叩きつけるような風と、空中を浮遊する恐さから「早く、早く引き上げてくれ!!」と心の中で叫ぶ。
ヘリの中は意外にも広い空間だった。顔を右に向けると2人のパイロットがぎっしりと計器類の詰まった操縦席に張りついていた。総勢6、7名の人間を乗せたヘリコプターは、地元の人達の視線を集めながら山の麓の広場に着陸。学校のような建物、そして広々とした田んぼが見える。私の体が”黄色い機械”から吐き出されると、地上で待機していた”白い機械”に吸い込まれる。それは走り出すなり、けたたましくサイレンを鳴らし始めた。

救急車の移動と同時に、救急隊員が私の怪我の状態を確認した。確認作業を終えると携帯電話で受入先の病院を探し始めた。最初の病院は駄目。そして次の病院も駄目。そんな状況を目の当たりにすると「たらい回しにされた患者が、病院に着く前に絶命」という事故が思い出され、憂鬱になってくる。3番目の病院でやっとOKが出たようだ。それにしても走行中は車の振動が左手に響いて痛い。揺れる度に「いてて、いてて」と騒ぐ。それを聞いて救急隊員は、「もう少し静かに走ってくれんか」と運転手に声をかける。しかし効果は無かった。
突然、「こら!!  そこのワゴン車!!!」と運転手がスピーカー越しに怒鳴りつける。どうもワゴン車が救急車に道を譲らなかったようだ。そうこうする中、運転手のイライラと手首のズキズキを載せた救急車がようやく病院に到着した。

近代的な病院に到着すると車椅子に移し変えられ、早速レントゲン撮影。醜い姿を曝した左手を直視するのは辛い。ただでさえ痛いのに、手をひねって角度を変えての撮影はもっと痛い。「この手直りますか?」と撮影している白衣のお兄さんに聞いたが「ええ、まあ」と曖昧な返事しか返ってこず、少し不安になる。もっともそのお兄さんは撮影技師なので、はっきりと答えられなかったに違いない。

「これは手術が必要ですね」と当直の医師は私に会うなりきっぱりと言い放った。レントゲン写真を見ると、手首に近い位置で骨が2本ともブッツリと切断されている。手首の膨らみは折れた先の部分が筋肉に引っ張られていて骨が重なっていた為だ。この写真を見た瞬間、「脱臼ならいいのだが」という微かな期待は、遙かかなたに飛んでいった。
若い医師は「悪いんだけど痛いよ」と言うなり、折れた左手を台の上に載せ、手のひらを引っ張った。「ウッ!!」と鈍い声が体から絞り出る。しかし今一つうまくいかなかったようで、もう一度引っ張った。「ウアッ!!」。この時の痛みを何と表現したらよいか。我が40年の人生の中でベスト3に挙げられる痛みとしか言えない。何とかまともな形に戻った手の下に白いプラスティックシートを敷き、包帯をぐるぐる巻く。
「もう一度撮影します。それを見て駄目なら、又引っ張りますよ」と医師に言われ、「えっ、まだやるの」と慌てた表情を見せると、「冗談ですよ」と笑い返された。この若先生は私をからかっているのか。
2度目のレントゲン撮影のため、今いる3階から再び地下1階の撮影室まで移動だ。どうも車椅子での移動は、まどろこしい。足は全く怪我していないのに何故車椅子を使うのだろうか。
以前何かの本で、”日本で遭難し救出されると、必要が無くても酸素マスクをつけられたり、車椅子に座らされたりで、如何にも重病人のように扱われることが多い”と書かれていたのを読んだ記憶がある。「僕、歩けますよ」と言いたい衝動に駆られたが、一生懸命車椅子を押してくれる看護婦さんの好意を無駄にするような感じがしたので、そのまま車椅子に身を任せた。しかし待合室を通過するときは外来の人たちの視線を浴びて、余り気持ちよいものではない。
撮影後、再び3階に戻り写真を見る。最初の写真とは違って、形のきれいな手首が写っていた。それを見た医師は、「う~ん。きれいに戻っている。オレ、整形の方にまわろうかな」と自画自賛。「このまま家まで帰って、明日にでも地元の病院で診てもらってください」との一言ですべての診察が終った。
「そうか、帰れるのか」。とりあえず地元で治療を受けられるのは有り難いことだ。

診察の後、看護婦さんに右手の治療をお願いした。滑落の際、枝をつかんで傷だらけになったからだ。折れて歪んだ左手首を元に戻す時の痛みがスーパーヘビー級なら、消毒液が傷口を刺激する痛みもなかなか侮り難く、こちらはミドル級だ。これも人生の痛みランキングのベスト10に仲間入りなのだ。
「あら、爪が長いのね」と、看護婦さんは右手の長い爪に気づいた。「ギターを弾くんですよ」と言うと、「あらギターって爪を使うの」と不思議そうな顔つきだ。手をよく見れば、薬指の爪は吹っ飛んでいたし、他の爪もボロボロだった。「どうせ当分の間はギターを触ることもないのだ」と思い、切ってもらうことにした。
チョキン、チョキン、チョキン、チョキン。看護婦さんの持つ爪切りが指先を走る。
爪を使って弦をはじくクラシックギタリストに”廃業”というものが有るのなら、引退のセレモニーで行われるのは、右指の爪落としだろうか。兄弟弟子により小指(or薬指)から爪切りが入れられ、最後に師匠によって親指の爪がバッサリと切り落とされる瞬間には、それまでの演奏活動が走馬灯のように駆け巡り、涙がこぼれ落ちるのだろう。
爪をさっぱりと切り落とした手のひらを広げ、表、裏と交互に見入る。ギターを始めて20年以上が経ち、一度も爪を切ったことがないので、実に不思議な感覚だ。むろん爪の無い右手はこれを最後にしたいものだ。

痛み止めとして飲み薬と座薬が処方された。斜面でザイルを繋いでくれたS氏は、薬の内容を薬剤師の人にいろいろ聞いていた。すると薬剤師は「プロの方ですね」と処方箋をS氏に見せてくれたのだとか。実はS氏は岩登りの得意な薬剤師で、現在神奈川の病院に勤務している。
S氏が私に曰く、「怪我をした人は、痛み止めをぎりぎりまで我慢しちゃんだが、そんなことは必要ないんだ。痛み止めの副作用は少ないから、痛みの軽いうちに速やかに飲んで楽になった方がいいんだ」とのアドバイスをくれた。
こういうときプロが身近にいるというのは本当に心強い。

病院に付き添ってくれた仲間たちと共に、最寄の安中駅までタクシーを走らせる。そこでは残りの仲間たちが待っていた。事故発生から約6時間ぶりの全員集合だ。「お騒がせしました」と皆に挨拶すると、
「こんなにすぐ、笑顔で会えるなんて思ってもなかった」とAさん。
「いや~良かった良かった。本当に良かった」と喜んでくれた長老のE氏。そしてYさんも心からほっとした様子を見せてくれた。仲間たちには随分心配をかけてしまったのだ。
帰りの高崎線の中では、皆、事故の緊張感から解放され、雑談する余裕ができた。しかしその光景にいつもと違う部分が有るとすれば、誰も缶ビールを持っていなかったことだろう。私の事故でビールを遠慮させてしまったのだ。ちょっと申し訳無い気分だ。

薬剤師のS氏は、病院から拝借したレントゲン写真を電車の明かりに透かしながらしげしげと見ていた。写真に写った折れた手首を見ると、事故の現場に引き戻されるようで、余り気持ちの良いものではない。それにしても電車の中で何人もの大人たちがレントゲン写真に見入っている光景はちょっと異様だ。
その後は、Aさんのカメラで交互に記念撮影。私も三角巾をぶら下げている姿をしっかり撮ってもらった。

翌日、母親が日ごろお世話になっている医師が勤務している病院に行った。久しぶりに会ったO先生は開口一番、「当病院の整形外科の名誉にかけて、元に戻してあげます」と言う。何とも有り難いお言葉である。O先生は私がギターを演奏することを知っていて、私のコンサートに足を運んでくれたこともある。そんな事情で私に力強い言葉をかけてくれたのだろう。一緒に病院へ付き添った母もその言葉を喜んでくれた。医療に携わる人々は、当然、医学に関する知識・能力が必要になるのだが、それだけではなく患者への思いやりの言葉を忘れないで頂けると大変有り難い。言葉ひとつで患者は憂いもし、喜んだりもするのだ。実際明るい気持ちになれば、免疫力も高めると言うではないか。
2人の整形外科医がレントゲン写真をじっくり眺め、慎重な協議の結果、一つの決断が下された。「手術の必要は有りません。骨は良い位置に戻っています。最初に診た医師の処置が良かったのでしょう。このまま様子を見ることにします」。
良かった良かった。手術を覚悟していただけに、”手術不要”の診断は大きな驚きであり、喜びだった。母と私はホッとして家路につくことができた。

事故全体を振り返ると、事故が起きてからの経過はすべてが順調だった。いや、順調過ぎてむしろ恐いくらいだ。「残りの人生の運を使い過ぎていやしないか」と心配もしたくなるが、とりあえずは自分の幸運を素直に感謝することにしよう。勿論、私の事故をめぐっては多くの人のご協力を得たことを忘れる訳にはいかない。実際、私一人の事故によって山岳会の仲間たち、警察署、消防署、病院の人たちを何十人も動かすことになったのだから。そして自分の手が直った後は、今度は私がお返しをする番だ。もし身の回りで事故が発生したとき、私に何ができるのか、何をすべきなのかをじっくりと考えてみたいと思う。

以上